貧乏な小澤司が、日本の貧困について考えてみた

日々貧しい生活を送るわたくし小澤が、貧乏人の立場から日本の貧困・労働・教育などを探っていきます

【書評】ウェンディ・ブラウン『いかにして民主主義は失われていくのか』

【書評】ウェンディ・ブラウン『いかにして民主主義は失われていくのか』

 

 

 

 

 

本書への違和感。「雑」

読後には違和感が残りました。

ひどい言い方をしてしまえば、ありきたりで雑な「新自由主義批判」というものが繰り広げられていて、読んでいてうんざりします。

 

・経済への無理解

 なぜ「うんざり」し、「雑と思った」のかと言えば、まずはこの著者における「新自由主義」への捉え方に、2通りの錯誤があるからです。

すなわち、

  1. 新自由主義とケインズ主義が相反するという錯誤。経済学への無理解
  2. 「資本家」や「労働者」が1枚岩に行動すると前提する、荒唐無稽さ

 

順に説明していきましょう。

まず「1.経済学そのものに対する理解のなさ」ですが、そもそも、現在の経済学においては、ケインズ経済学と新自由主義とは互いに敵対するものではありません。

 

経済学というものは、功利主義の発想の下、人びとの厚生を最大化させることを考えたものです。

 

そして現在の先進国においては、市場の機能が成熟したため、問題は基本的に市場にゆだねることが最もコストパフォーマンスがよく、政府の役割は事態が円滑に機能するための制度設計や規制改革に専念することになる。

 

これは思想のみならず、数理的な理論の基礎付けや実証結果も残っているため、エビデンスベースドな主張として非常に強力なものです。

そのため現在、左翼リベラル・右翼保守政権どちらにあろうと、要するにスウェーデンのような北欧左翼国家にあろうとトランプ率いる保守のアメリカにあろうと、基本的に各国の経済政策はこれが基調となっています。

 

実際、リベラル政権であるオバマ政権において、国家経済会議議長のローレンス・サマーズ氏は、次のように発言していました。

 

われわれに対しては、雇用を創出し、長期的な成長に投資するのではなく、消費者支出を生み出す短期的な政策に専念すべきだと主張する人もいる。

しかし、そのようなアプローチが、今日直面しているいくつかの問題につながったのであり、長期的に中産階級と経済を強化しようとするなら、われわれはそのようなアプリローチは拒否しなければならない。

 

www.washingtonpost.com

 

 

・ 「資本家」や「労働者」が1枚岩に行動すると前提する荒唐無稽さ

そして「「資本家」や「労働者」が1枚岩に行動すると前提する荒唐無稽さ」。

 

この手の本においては、そもそもにおいて本質的な問題があって、それは「資本家」とか「労働者」など大まかすぎるカテゴリーで話を進めるところにあります。 

すなわち「資本家」や「労働者」という大まかなカテゴリーでくくることは適切なのでしょうか。

 

 

実際は、それぞれの”資本家”や”労働者”によって求める利益や利害関係は異なるのだから、同じカテゴリーでくくり同じような行動を取ると点においてまず無理があるのは言うまでもありません。

 

例えば目下にあたる日本の労働環境を見ても、日本の場合、労働者の貧困は非正規雇用者と正規雇用者ではっきりと区分されており、「60%(正規雇用労働者)対40%(非正規雇用労働者)の戦い」などと言われています。

このような状況において、労働者が一丸となり同じようなインセンティブと利害環境の下、同じような行動をふるまうものと思うでしょうか?

 

ozawa-tsukasa-binbou.hatenadiary.jp

 

資本家にしても、全体の事業所1%を占める大企業とそのほか99%のを占める中小零細企業を同一視し、これらがすべて同じような行動をとるとみなすことができるでしょうか?

 

そう考えていくと、本書の荒唐無稽さが露わになってきます。

 

事実「国家の経済活動」という広範なものを対象とし、似たような立ち位置にあるマクロ経済学においては「マクロ経済学のミクロ的基礎付け」という数学的処理によって、この”大雑把すぎるカテゴリー問題”を解決しようとしました。

ですが、本書においてはこの「ミクロ的基礎付け」のような操作はなされないので、いつまでたってもカテゴリーが雑なまま話が進みます。

 

そして「資本家」など、大雑把で広範な範囲でしかモノをみることができないから、どうしても「市場原理主義は資本家の謀略」のような、陰謀論染みた話になってくる。

 

「悪の集団が世界を破滅に陥れようとしている!」みたいな。

 

 

「社会」を扱う話の困難さ

ここで、社会学ができた当初に行われた「ある論争」が思い出されます。 

本書において、これは実証に重きを置かない人が著書ウェンディ・ブラウンが採用する手法は「方法論的集団主義」に近いもの。

これは社会学の創始者の一人であるデュルケムが採用したもので、集団が一枚岩のようにし思考し行動しているとみなします。

 

ひところの社会学においては、この「方法論的集団主義」が正しいのか、あるいはマックス・ヴェーバーの唱える「方法論的個人主義」が正しいのかの理論論争が盛んになりました。

しかしこの論争はとうの昔に捨て去られ、現在では淡々とした実証研究が社会学のメインストリームとなっています。

 

なぜこの理論論争がなくなったのかと言えば、それは一言でいえば、「時間の無駄」だからです。社会学は理論の数理化が進んでいない分野ですから、ミクロ的基礎付けもできないし、この辺り、延々と話が平行線になりがちであり、どうしても難しい。

 

「社会」を述べることの難しさを感じます。

 

 

 

「政治世界に経済タームが侵食していない時代」というのは本当にあったのか

ほかにも疑念がないわけではありません。

 

この本の主題は「今やあらゆる政治世界に経済タームが侵食するようになってしまった」というもの。

そのような話はよく聴くものだし、現在の貧困と格差が蔓延するようになってしまったゴミのような世界を踏まえるに、情緒的にはもっともな話でしょう。

しかし本著においては、その主張を支える根拠が記されていません。ですから、どうしてもただの感情の爆発のように聞こえて仕方がありません。

 

感情の爆発が悪いといっているのでは、もちろんありません。

そのような要素は、小説や映画など芸術作品においては重要でしょう。しかしこの本は評論であり、主張には根拠が必要です。

 

くわえて著者が主張するような「政治世界に経済タームが侵食するようになってしまった」として、それが本当に良いものだといえるのでしょうか。

 

全体的に、どうも懐古主義的な話に見えてしまいました。